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ブログ201004-201012

橋本努

 


 

■ブログ開設!20100408

 ようやくブログを立ち上げました。いま書いている著作やエッセイ、学生とのインタラクション、サブカル・思想・時事問題の三大話など、さまざまなことを書き連ねていこうと思います。

 みなさま、どうぞよろしくお願いします。

 

■ゼミの予定 20100409

 橋本ゼミのみなさま、こんにちは。欠席された方もいらっしゃいますので、今日のゼミで決まった予定を以下に記します。

 

 (1) これはとてもチャレンジングな課題なのですが、三年生の方は、新しくゼミ用に「ブログ」と「ツイッター」を開設してください。

ブログにはゼミの課題(例えば、グループ発表課題)や、サブゼミの課題(例えば、新聞記事の内容とコメント)などを、掲載します。

ツイッターには、会話したいこと、本やネットで得たネタになる情報を、書き込んでいきます。

相互にリンクを貼って、ゼミのコミュニケーションを補助しましょう。

まず私のブログにリンクを貼って、ツイッターをフォローしてみてください。

開設に時間がかかるかと思いますが、415日の24:00までに、開設したブログとツイッターのアドレスを、ゼミのメーリングリストに流してくださいね。

それで、ブログもツイッターも、一週間に二回以上、書き込むことにしましょう。

これをこの四月からはじめて、就職活動が本格化する前の11月まで、続けます。

すでに自分のブログやツイッターを開設している人もいると思いますが、今回、新たに、公的で社交的なコミュニケーションの場となるような、公共性の高いものを新たに開設することをお勧めしています。

 

 (2) 過去に書かれた卒論の特選論文の中から、「これはすごい」と思ったものを一本選んで、その論文のタイトルと選んだ理由を150字以内でツイッターに書き込んでください。こちらも、415日の24:00までに、です。

 

 (3) 来週のゼミではA班に発表をお願いしています。

濱口桂一郎『新しい労働社会』の序章から第二章までを議論します。

A班の方は、レジュメを415日の24:00までに、メーリングリストに流してください。レジュメのサンプルは、以前お渡しした「ゼミ紹介」のなかにあります。

 

 (4) 来週からサブゼミも始まりますね、こちらもどうぞよろしく。

 

以上です。

 

橋本努のツイッターは、hashimototsutomです。

 

 

■多元主義と自由主義20100410

 

上森亮『アイザイア・バーリン 多元主義の政治哲学』春秋社[2010]

 

上森亮様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・多元主義の基本的な特徴は、三つあるだろう。まず社会的な事実として、人々はさまざまな価値観をもっているということを前提としよう。その上で、(1)道徳的な問題にたいして、私たちは一つの正解を与えることができない。(2)人々は価値観を共有していなくても、理性的なコミュニケーションをつづけることができる。(3)合理的であるとは、必ずしも一意的・唯一的な正しさを意味しない。この三つの命題を認めることが、多元主義の基本的なスタンス。ここまでは、多くの人が共有できるだろう。問題は、ここから多元主義を乗り越えるメタ議論を提示する立場を、どのように評価するか、という点だ。

 

・諸価値が対立したり拮抗する場合に、「棲み分け」的発想でいくのか、「闘争的関係性の構築」でいくのか。またいずれの場合にも、拮抗する諸価値は、メタレベルで体系化されて、いっそう包摂的な思想へとコンバージョンすることができるのか、あるいはそのようなコンバージョンを拒否して、諸価値の闘争的関係性のなかに、ある種の社会的理想を認めるべきなのか。多元主義をいかに遇するか、それが思想的問題。

 

・バーリンのロシア・コネクション、とくにバーリンのゲルツェン評価は重要。「なぜ個人の自由は追求する価値があるのか。それ自体のためであり、……大多数がそれを望むからではない。……自由の価値は、文明や教育……の価値と同様に、それなしでは個人の人格がそのすべての潜在能力を実現化できない、という点にある。」H. Hardy and A. Kelly eds., Russian Thinkers, 2nd ed., Penguin Classics [2008: 107-108], (244)→ゲルツェンは、自分の潜在能力を実現するために、祖国ロシアを去ったわけだが、ならば自由な国家の理想とは、人々の潜在能力を実現するための、最大限の機会と支援を与える政体ではないか。

 

・どれだけ多くの可能性が個人に開かれているのか、その可能性はどれだけ実現可能性があるのか、それらの可能性はどれだけ重要な価値を持つのか、またそれらの可能性はどれだけ人々に評価されるのか。潜在的可能性に関するこれらの基準を多く満たしている社会が「実質的自由」の世界。だが問題は、これらの問いに答えるための、明確な尺度が見つからない点だ。だから私たちは、実質的自由を理想とする思想や制度構想を、なかなか展開することができない。バーリンはこの問題の重要性に気づいていたようだ(150)。現代の自由主義が必死に展開すべきは、この実質的自由の理論ではないか。

 

・サンデルの問い。自由が道徳的な特権的地位を持っていないなら、もしも多くの価値の中のたった一つにすぎないならば、自由主義を支持するために何を主張できるのか。この問いは、平等や友愛などの価値にも同様に当てはまるだろう。道徳的には、私たちはさまざまな価値を、比較的安定した編成によって維持することを、日々の道徳的な実践としている。しかし道徳的価値と社会制度編成の関係を考える場合には、もっと複雑な思考が必要だ。これは思想そのものの意義をめぐる基本問題なので、豊かに問いたい。

 

 

■ダイナミックなケイパビリティを定義する

 

C.ヘルファットほか著『ダイナミック・ケイパビリティ 組織の戦略変化』谷口和弘/蜂巣旭/川西章弘訳、勁草書房[2010]

 

谷口和弘様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・ダイナミック・ケイパビリティの原初的な定義は、組織の現行の慣習・学習パタンを統合したり再配置したりして、急速な環境変化に対応する能力、といえる。環境の変化が緩やかな場合には、組織は、いま使える資源を最大限に使うための戦略を立てることができる。これをオペレイショナル・ケイパビリティと呼ぶことができる。これに対してダイナミック・ケイパビリティとは、組織の資源ベースを、創造・拡大・修正する能力のこと(2)。例えば、買収、戦略的提携、新規参入、新しい生産プロセスや新しい製品の開発、などに発揮される能力である。

 

・企業は乱気流的な環境の下で、短期的な利潤の最大化を追求するのではなく、資源ベースのダイナミック・ケイパビリティを追求する、という仮説を立てることができる。ここでは変化する市場環境をどのように識別するか、という認識が重要。

 

・どれだけ多くの子孫を次世代に残せるか、という進化的適合度への戦略が、ダイナミック・ケイパビリティの尺度となる。どれだけ儲かるのかを問うのではなく、組織がどれだけ進化するかを問う。しかし、この組織がどれだけ存続しうるのか、と問うのではなく、どれだけ子孫を増やせるのか、と問う。この場合の子孫とは、必ずしもその組織である必要はないだろう。また、この組織がどれだけ成長しうるのか、という戦略を問うのではなく、たとえ個々の成長が実現しなくても、潜在的な可能性そのものをいかに増大させることができるのか、そのための戦略を問う。さらに、価値創造の質を現実的に問うのではなく、例えば買収や提携の場面で、他者との豊かな関係を築くための能力を問う。加えて、一定の競争環境の下での「競争優位」を問うのではなく、競争環境が変化するなかでダイナミック的な進化を遂げるための資源を問う。ダイナミック・ケイパビリティの概念は、こうした問いかけを、研究プログラムとして体系化していくためのハード・コア理念だといえる。ただしこの点にかんして本書の記述はもっと実践的で、理念としては妥協的。グローバルな提携、買収、合併などによって、急速に再編されるビジネスの実践知を、模索する。

 

 

■成長論的なリバタリアン?

 

森村進「グローバリゼーションと文化的繁栄」『人文・自然研究』(一橋大学)第四号[2010]

 

森村進様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・これは驚き。グローバリゼーションは文化の繁栄をもたらすので、文化事業に対する公的支援をする必要はない、という。成長するから介入する必要はない、という、これはつまり、成長論的リバタリアニズムではないか。

 

・リバタリアニズムが、オペラなどのハイ・カルチャーに、国家支援を求めるような立場(例えばドウォーキンのようなリベラリスト)を批判するのは、分かる。しかし例えば、全国の地方自治体にある図書館のような制度を、リバタリアニズムは私営にすべき、というのだろうか。

 

・ラディカルな左派が求めているのは、例えば、図書館などを通じて、インターネットを無料で利用できるようにすること。そのほうが、文化的繁栄をもたらすかもしれない。もし成長論的な基準でもって文化制度の正当化を図るなら、リバタリアニズムの強固な基礎は崩れてしまうようにみえるのだが。森村流リバタリアニズムも、たんなる直感基礎付け主義ではなく、成長論的な構えを持っているということは、この論文から押さえておきたい。

 

 

■三位一体説をどう捉えるか

 

大澤真幸編集の雑誌『THINKING O(オー) 創刊号』20104月、左右社

 

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・医師の中村哲さんが、アフガニスタンで用水路を作ったことに、まず敬意を払いたい。その意義は何か。交響圏と交響圏をつなぐ、グローバルな連帯を実践的に表現している、ということだ。

 

・連帯の課題は、共同体と共同体の間に、たんにコミュニケーションを可能にするだけでなく、個々の共同体を包摂するような、包括的な共同性の関係を打ち立てることである。世界全体が一つの包摂的な営みになるとイメージできるためには、三位一体説的な発想が必要となる、と大澤は論じる。

 

・信仰の共同体が「聖霊」で、その共同体をいったん疎外し、物象化したものが「神」である。対自的な共同性においては、「聖霊」と「神」は一体化している、といえる。ところが、個々の共同体を超えて、信仰の包括的な共同性に到達するためには、「子(イエス・キリスト)」の働きが必要となる。それは、共同性を拡張する媒介の働きであり、中村哲さんの活動はまさに、それにふさわしいというわけだ。

 

・キリストのように生きることが、グローバルな包摂を実現する。この考え方と異なるグローバルな実践は、聖霊が、個々の共同性を超えて、共同体と共同体とのあいだに、コミュニケーションの媒介を果たすような働きであろう。商人、移民、マージナルな文化人、等々。マルチチュードの活動によるグローバリズムの推進は、もはや既成の共同体(聖霊と神の一体化した政体=国民国家)を維持せず、これを解消しながら、自生的な増殖原理となっていく。

 

 

 

■たまプラーザ団地はワルシャワにもある?

 

原武史『沿線風景』講談社、2010

 

原武史様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・昨日もまた、原先生といっしょに電車に乗って、至福の時間をすごしました。この本、田園都市線を基線にして生まれているのですね。読ませます。

 

・大連、香港、北京、台北、ロンドン、エルサレムなどの郊外と比べると、東京の郊外にある団地は、ポーランドのワルシャワの郊外の団地にそっくりという。旧社会主義国の生活であれ、東京郊外の生活であれ、人々は、団地生活を通じて、おそらく同じような社会意識をもって暮らしているのだろう。

 

・それで、分かった気がする。なぜ私は、これまで社会主義のイデオロギーに魅了されてきたのか。それは言ってみれば、「団地社会主義」のイデオロギーなのだ。団地生活が可能にする、ある種の設計主義的心性と、平等意識、そしてコミューンの活動。団地生活を通じて、私は幼少期に、特殊な社会主義の感覚を身につけたように思う。ワルシャワでは90年代になって、資本主義体制になっても同じような団地の建設がつづいたというが、この団地生活のスタイルこそ、70年代にマルクス主義が再興した際の、下部構造をなしていたのではないだろうか。

 

 

 

■負け犬という自虐が効かないゼロ年代後半

 

水無田気流『無頼化する女たち』洋泉社新書、2009

 

水無田気流様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・先日は、テレビでご一緒させていただき、とても光栄です! 詩人の文章とは、かくも読ませるものなのか、やはり息遣いが違いますね。しかもこれは結構、ネタが俗人受けするような。面白く読ませていただきました。

 

・正しいことをそのまま説いても、その説法は、人びとが生きるための血肉にはならない。むしろ例えば、酒井順子の『負け犬の遠吠え』(2003)のように、自虐的なスタンスで語るスタイルが、広く受容された。「未婚、子ナシ、30代以上の女性」を「負け犬」と呼んで、自虐する。負け犬は、結婚という目標のために、恥を忍ぶことができなかった。例えば、「妊娠したかもしれない」「料理が得意なの」等の嘘をつく、泣き落としや、一オクターブ高い声で話す、一人では生きて生けないフリをする、などのイニシエーションをすることが、無頼系の女性には恥ずかしくてできない。勝ち組負け犬は、女子役割を演じることが気恥ずかしい。

 

・だが酒井『負け犬』的な自虐が通用するのは、勝ち組の女性であって、低賃金労働の女性ではない。00年代の後半になると、もはや自虐が通用せず、サバイバルしなければならない状況がうまれる。すると、勝間本が次々と売れる時代になるのだが、これはつまり、@マネータブーを打破し、A女性の出世タブーを打破するという、画期的な言説の誕生、といえるだろう。「努力」「効率性アップ」「キャリア・アップ」「リスク管理」「自己主張」「金融リテラシー」等々。これらの目標がストレートに説かれるわけなのだから。

 

 

 

■無駄な個人主義の意味

 

岡田康宏『日本サッカーが世界で勝てない本当の理由』マイコミ新書、2010

 

岡田康宏様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・まず一人の選手が、無駄に走って仕掛ける。するとそこに、スペースが空く。空いたスペースを利用して、今度は、別の選手がそこに飛び込んでいく。そうやって、相手の守備陣のほころびを生み出していかねば、チャンスは生まれない。この戦略が成り立つためには、最初に無駄走りをする選手の行動を、みんなが高く評価することができなければならない。

 

・この動きをすることができる攻撃型の人材は、いま、企業にも欠けてる。大学にも欠けている。サッカーだけの問題ではないのだ。日本社会はいま、個人主義化と保守化という、二つのベクトルをもっているが、いずれのベクトルにおいても、最初の無駄走りをしっかり評価するような公共性は失われてしまう。個人主義化がすすめば、すべてが自己責任となり、だれも「無駄走り」することができなくなる。他方、コミュニティが一体性を強めて、保守化すればするほど、最初の無駄走りをするという個人主義プレーを、共同体の内部で評価することができなくなる。サッカーが教えるのは、無駄な個人主義的プレーを評価することができる共同主義、という理想だ。そのような理想のコミュニティは、いかにして可能なのか。それが社会思想的にも問われなければならない。

 

 

 

■金融危機の四半世紀への処方箋

 

佐々木隆生『国際公共財の政治経済学』岩波書店、2010

 

佐々木隆生様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・金融的蓄積と過剰消費に依存した成長の拡大再生産、それが1982年以降、現在まで約四半世紀ほど続いた。だがこの状況の構造は、すでに終わりを告げた、と本書は主張する(17)

 

・終わりとは、なにか。金融部門以外に優秀な人材を配置し、税制を増税方向に改革し、サステナビリティへの制度改革を進めていけば、現在の経済構造は改革されるだろう。そして国際公共財のフレームワークを築けば、現在の経済構造は不安定なものではなくなる。加えて、ネオリベラルな四半世紀に対抗するためには、G20と東アジア共同体の構築が必要、ということ。

 

 

■熟議民主主義の本質は保守主義?

 

山田陽「熟議民主主義と「公共圏」『相関社会科学』第19号、20103

 

山田陽様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・熟議民主主義の理想として、中心的な空間にフォーラムを据えるのではなく、多元的で、脱中心的な、アソシエーションに媒介されるような、そんな多元分節的な社会のほうが、各人はうもれずに、自分の社会的な影響力を確実なものとすることができるだろう。そうでなければ、各人の影響力は、一定のパタンへと鋳型をはめられ、それ以外の解釈は、影響力がないものとして処理されてしまう。国家に対抗するための、批判的市民的なコミューンのネットワークが、多元的に構築されている状態が、新しい熟議民主主義の理想となる。

 

・ところが、そのような影響力の観点から考えると、熟議と社会運動の戦略が、互いに拮抗する。「ミニ・パブリック」という、ランダム・サンプリングに基づいた市民参加型の熟議は、ゲリラ的に市民の声を政治に届ける手段となりうるが、それは社会運動が求める要求と比べて、どこまで正当な要求なのか。そもそも社会運動がなければ、あるテーマは社会問題化されず、ミニ・パブリックの議題とならない、という問題もあるのだが。

 

・熟議民主主義の問題は、時間軸を考慮に入れないで、「熟す」ということがいったい、どんな基準なのかを、明らかにしないことだ。自律したコミュニケーション、自発的なアソシエーション、批判的・反省的な討議、といった基準は、議論が「熟す」基準にはならない。時間軸の問題を、制度的に捉える視点がないのだ。

 

・「熟成型民主主義」というアイディアについては、拙稿を用意している。井上達夫編の立法学の本に所収予定。

 

・熟議型民主主義は、熟議への「いざない」という、最初の一歩をオルグすることに、制度的・実践的な関心を注いでいる。熟すことよりも、コミュニケーションによって自分の考えが変容する可能性や、意見を表明できる場を確保すること、あるいは、人びとのまだ熟していない意見や解釈を、意思決定過程のなかに登録していく、そういう「参加と承認の意義」を与えること。そうしたプロセスに関心を注いでいる。だが、これはつまり、熟議とは何か、という問題よりも、「市民社会とは何か」という問題を重視していることの現れであろう。いったい熟議とは何か、を真剣に考えれば、それは保守的な理想にいたるのではないか。議論は、歴史や時間のなかで熟成していくのであり、そのような場合に、はじめて「熟した」と言えるのであって、人びとが一時点において理性を尽くして議論しても、議論は熟さない。この本質的な困難を考えると、おそらく、既成の市民社会論の理想は熟議民主主義論において、掘り崩されていくだろう。そういう危険を、熟議民主主義論は回避していないだろうか。

 

 

■拙著が報われた

 

東浩紀・北田暁大編『思想地図』vol.5

 

・東浩紀様、北田暁大様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・北田様、長大論文「社会の批評」を面白く読ませていただきました。論文末のブックガイドに、拙著『自由の論法』『社会科学の人間学』を挙げていただき、幸甚です。社会学の方法論として。

 

 

■ミュルダールの普遍主義はどこまで普遍的か20100427

 

藤田菜々子『ミュルダールの経済学』NTT出版

 

・藤田菜々子様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・ご高著を、じつは書評させていただきました。ちかく、『経済セミナー』に載る予定です。そのさわりの部分はこんな感じです。「今年最大の収穫となるだろうか。二〇世紀の福祉国家を擁護した最大の経済学者、ミュルダールの人生と業績の全体に迫る渾身作。満を持しての刊行だ。……」

 

・スウェーデンにおける普遍主義的福祉政策とは、自己責任を問わず、また所得調査というプライバシー侵害を犯さずに、市民の権利としてニーズに見合った給付を行なうこと。この政策を提案したのは、メッレル(Möller 1952)で、宮本太郎によれば、「メッレルはミュルダール夫妻の構想が家族と市民社会への過剰な介入主義という性格を有していること[例えば、妊婦助成や児童手当てに際して、栄養指導や所得調査をすること]を嫌い、所得、現金給付等のより間接的な手段を優先した。その結果、行き過ぎた管理主義が回避された反面、既存のジェンダー関係は温存された」という。栄養調査などについて、プライバシーに踏みこまない普遍主義では、女性の解放は進まないが、官僚制の肥大化と裁量権の増大を防ぐことができる。これに対して反対に、プライバシーに踏み込むやり方は、女性の解放をすすめるが、普遍主義の理念を制約して、官僚制の肥大化をもたらしてしまう。いったい、どちらが望ましいのだろうか。ミュルダールはこの点で、普遍主義的ではない福祉国家を展望した、ということになるのだが。

 

・それにしても、ミュルダールの息子、ヤーンの著した本『嫌われた子』(邦訳あり)は、母アルヴァの子育てに対する批判の書のようですね。アルヴァはこの本が刊行されてから、失語症とひどい頭痛の症状に悩まされ、頭部の手術を受けたものの改善されなかったという。この話、衝撃的でした。

 

 

■サッチャーのレトリックこそ闘争的民主主義の原型

 

豊永郁子『新版 サッチャリズムの世紀』勁草書房2010

 

・豊永郁子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・イギリスは、1979年のサッチャー政権の誕生によって、コーポラティズムによる合意の政治から、党派的な二大政党制に移ったというのは、一面的な見解にすぎない。コーポラティズムは1970年代の一時的現象にすぎなかったという見方もある。あるいは、サッチャーが実行した政策、例えば公共住宅の払い下げは、約10年前から保守党が掲げていたもので、サッチャーはそれを、友敵関係の党派的なレトリックでもって実行したにすぎない、という見方もある。いずれにせよ、労働者たちは、この払い下げ政策を支持した、という事実は重要。サッチャーは、労働者を味方につけて、労働党を敵とした。こういう戦略から、何を学ぶべきか。闘争的民主主義そのものではないか。

 

 

■日本人よ、議論で「ボトム・ライン」を明確にしよう

 

川ア剛『「優秀論文」作成術』勁草書房、2010

 

・川ア剛様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・反論を取り扱わない論文は、言いっぱなしの論文。ありうる反論に対しては、それをしっかりと想定して、きちっと応答することが重要だ。だが日本人は、どうも、この反論の取り扱いに慣れていない。反論に対しては、まず真摯に扱うこと。「譲れるところは、譲る」、という態度で望みたい。けれども、「譲れない最低限のライン」がどこにあるのか、それを明らかにしなければならない。「ここからは絶対譲れない」という強い主張を、あなたはどれほど論争的に育んでいるだろうか。それが問われている。英語で、What is your bottom line? といえば、「あなたの言いたい要はなんだね?」という意味。自分の言いたいこと=主張があるとして、それにもし反論された場合には、ここだけは譲れないというボトム・ラインを、明確に作っておく。そういう論文作法が、いま切実に求められているのではないか。

 

 

■大切なのは「人間」か「個人」か

 

竹下賢・角田猛之・市原晴久・桜井徹編『はじめて学ぶ法哲学・法思想』ミネルヴァ書房、2010

 

・竹下賢様、角田猛之様、市原晴久様、桜井徹様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・法学ではこれまで、「人間の尊厳」を二つの意味で理解してきた。一つは自己決定権の尊重という意味での「個人の尊重」。もう一つは、その自己決定権を制約する抽象的な原理としての「人間の尊厳」である。後者の「人間の尊厳」は、例えば、生殖に対する人為的な操作に反対する。生命という「授かり物」にたいする人工的な介入は、人間の尊厳を傷つけるのではないか、と考えられるからだ。生殖は、自然な現象だ。そこに介入すると、人間が本来もっているはずの、自然主義的道徳を破ることになるのではないか。そのように発想する。

 

・ルソー的な自然人の道徳では、人間には、理性をもつ以前に、困窮した人を助けるという「憐れみ」の道徳がまずあった。ところが人間は、文明人となって理性をもちはじめると、この憐れみの感情を失い、とくに哲学者は、孤独を好んで他人にかかわりあおうとしなくなる。これでは自然な道徳が廃れる、というのがルソー的な発想。哲学者が理性によって解決できると考える道徳は、自然人の基本的な道徳を破壊してしまう。とすれば、個人の尊重は、人間の尊厳によって制約しなければならない。ただ、この論理がどこまで通用するのか。それが問題。

 

 

■自由に育てる/自由を育てる

 

広田照幸編『自由への問い 5 教育』岩波書店、2009

 

・広田照幸先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・宮寺晃夫「自由を/自由に育てる」は、重要。成長論的自由主義の観点から賛同したい。法的な場面で争われる言説を検討するかぎり、親の教育権を擁護する議論は、「自由に育てる」という、リバタリアン的な、あるいはリベラルな選択の理念になってしまう。だが教育学は、個々の家庭が、子供を「自由に育てる」のではなく、子供の精神に「自由を育てる」という、そういう配慮をするのであり、プライバシーに踏み込んで政治を考える。本論文は、そのような教育学の使命を、多元的な政治的討議の場で、話し合うことによって導こうとする。では、政策的・制度的な装置として、「自由を育てる」ためには、どんな工夫が考えられるのか。これは成長論的自由主義にとって、重要な問い。

 

・本論文は、初期教育にはできるだけ第三者の介入を避けるべきというが、これと対照的な考え方は、ロバート・オーウェンの幼児教育論で、ベンサムが支持したもの。幼児をできるだけ社交的に育てることが、自由を育てることに資すると考えられる。「自由を育てる」ために、例えば、幼児園の無償化、というアイディアは有効だろうか。あるいは、「自由を育てる」という目的のために、その目的を実践していると称する、日本のシュタイナー学校には、一定の公的補助を支給することができるだろうか。思想を制度に受肉するためのアイディアとして。

 

 

■市場が十分に発展していないから、金融危機

 

片岡剛士『日本の「失われた20年」』藤原書店、2010

 

・片岡剛士様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・リーマン・ショック以降の世界金融危機。その原因と教訓について、岩田規久男[2009]の整理を紹介する。それによると、CDSといった金融派生商品は、相対型で取引されていたという。金融取引に関するリスクの根幹部分は、証券化できなかった部分の「リスク」であり、それはつまり、市場の価格シグナルによって調整されていたのではなく、そもそも市場では相手を見つけることができなかったがゆえに、相対取引になっていた。だからその資産価格が下がると、市場でそれを売買するための価値判断を、スムーズにすることができなかった。これはつまり、市場主義が金融危機をもたらしたのではなく、反対に、リスクが高いものについて、市場価格の外部で取引をしてしまったからこそ、危機が生じた、ということである。ありうる規制としては、市場価格を媒介しない相対型の取引を、制約することであろう。これは自由な契約を制約することになるが、しかし市場を制約することにはならない。むしろ重要な意義をもつハイリスクの取引を「市場化」することを意味する。自己組織化された市場とは、このような人工的操作を必要としている。自生化主義の統治術として。

 

 

■規範は記述できない

 

前田泰樹・水川喜文・岡田光弘編『ワードマップ エスノメソドロジー』新曜社、2007

 

・前田泰樹様、水川喜文様、岡田光弘様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・エスノメソドロジーによれば、規範とは、行為や光景などについての「可能な記述」と、行為や光景を理解するための「装置」から成り立っている。装置が、可能な記述を同定し、また、可能な記述の上に、装置の使い方が示される。例えば教師が、生徒に向かって、「静かにしなさい」というとき、その言明は、規範という装置の「可能な記述」であるが、教師はどんな規範装置によって「可能な記述」を導いているのか、それを説明しないでも通用する。規範とは、「静かにしなければならない」という要請が、無批判に通用する事態であるといえる。教師は、「可能な記述」によって、規範装置が存在することを示すのみである。規範は、可能な記述と装置を直接結びつける。

 

・ただここで規範とは、正確には、「可能な記述」と「装置」から成り立っているのではなく、「行為の要請」が、もっぱら「その場にふさわしい/ふさわしくない」という理由によって、理解されて通用する、ということだろう。「要請」と「相応性」と「場所性」という、三つのファクターによる規範の理解が、必要である。

 

・しかし「要請」「相応性」「場所性」この三つの結びつきは、強固なものではない。ある場所において、どのような振舞うことがふさわしいのか、それがよく分からない場合、規範が弱い、といえるのか。規範とは、行為を導く条件ではなく、むしろどんな行為をしてはならないかについての条件ではないか。また規範は、それが反省的に捉えられている場合には、ある場所においてどうしてこのように振舞うことがふさわしいのか、という問題に「理由」を与えることができるはずだ。「この場にふさわしい/ふさわしくない」という言明だけで、ある要請を正当化するのではなく、その言明の理由を示すことによって、正当化することもできる。

 

・すると規範とは、行為を導く条件ではい。規範はまた、行為を可能にする条件一般でもない。そのような条件は、駆動因、信条、慣習、享楽など、さまざまなものがあるはず。

 

・規範は、「要請」と「相応性」と「場所性」のパッケージによって与えられるのではなく、「相応性」の理由を体系的に与えるために、相応性の反省的な理論化を必要としている。相応性の理由をうまく体系化した場合に、規範は、さまざまな規範のなかから選ばれる。

 

 

■貧農の無頼性が革命の原動力

 

折原浩著『マックス・ヴェーバーとアジア』平凡社、2010

 

・折原浩先生、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・中国における共産主義革命は、ロシアでの革命とは、大きく異なるものだった。ロシアでは、富裕な農民ブルジョア層に対して「憎悪の感情」を抱く農民たちが、20世紀初頭の革命を担っていた。ところが中国の農村では、「光棍[無頼の顔役]」として組織化された貧民たちが、その土地の実直な農民たちに対抗するのではなく、むしろ農村を抜け出て、都市を包囲するに至る。この毛沢東型の中国革命は、つまり、無頼の農村貧民がもつ爆発的な駆動力によって、可能になったといえるだろう。

 

・ウェーバーの分析は、毛沢東型の革命を予知していた、と本書は指摘している。(133)

 

・中国共産主義のこの駆動因は、コミュニティに取り込まれない、排除された人びとが、既存のコミュニティを超える、大きなコミュニティを展望することから生まれている。これは、資本家と労働者のあいだの階級闘争ではない。排除された無頼の人間たちの、全能感のエネルギーが、革命を導いている、と考えられる。

 

 

■あたかも合理的であるかのように振舞う

 

ポール・ピアソン『ポリティクス・イン・タイム』粕谷祐子監訳、勁草書房、2010

 

・粕谷祐子様、ご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・行為者は、最も効率的に、制度をデザインできるという意味で「合理的」なのではない。人間の行為にはさまざまな意図せざる結果がある。このことは避けられない。だがやはり、マクロ的な制度は、長期的には一定の趨勢をもっている。だからその趨勢を考慮して行為できるなら、それが、人間の「合理性」といえる。

 

・では人びとは、長期的な趨勢を、いかにして知ることができるのか。無知な人間は、その趨勢を認識することができない。そこで合理的な制度とは、その環境の下で、人々が、学習のインセンティヴを与えられているような制度であるか、あるいは、人びとがもっとよい仕方で行為すべく、協調的・競争的な環境におかれるような制度である、ということになる。

 

・社会の複雑性は、学習が意味をもちうるところまで、縮減されなければならない。そうでなければ人びとは学習へのインセンティヴをうしなってしまう。自分の学習的成長が、制度の長期的趨勢に対する考慮に結びつくように制度を再編せよ。これが成長論的発想。

 

・また社会の複雑性は、次世代に何かを託すことが有意義である、と思えるところまで、縮減されなければならない。そうでなければ、人びとは自身の利己心を、次世代への配慮にまで拡張することができない。またそうでなければ、人びとは、慣習や伝統に従うことの意義を見失ってしまうだろう。次世代への配慮が、制度の長期的趨勢と一致するように考慮せよ。これが進化論的な発想。

 

・人びとは、成長論的な発想や、進化論的な発想に導かれている場合に、制度の長期的な趨勢を考慮することができるのであり、しかも合理的であるといえる。ただ、いずれにせよ、発想そのものは、必ずしも長期的趨勢の確実な考慮とは結びつかない。だから主体の合理性は、「あたかもマクロ状況からみて合理的であるかのように振舞う」ということにとどまるだろう。私もあなたも、制度の長期的趨勢をあまりよく知らない。だから、私の視点から、あなたのほうが非合理的とはいえない。あなたは「あたかも合理的」であり、私も「あたかも合理的」であるという、そういう想定をひとまずしなければならない。その上で、もっと成長論的・進化論的な制度を考える、ということになるだろう。

 

 

■大学一年生向けの社会学入門として

 

宇都宮京子編『よくわかる社会学 第2版』ミネルヴァ書房

 

・宇都宮京子様、また増刷ですね! ずいぶんながく、好評を博していますね。

 

・本書の第二版の第4刷が、最近出ました。私も一部、担当しています。本書は、大学生、専門学校生、あるいは高校生向けに書かれた「社会学の入門書」です。社会学といっても、いろんな分野があります。それぞれの分野が、コンパクトに紹介されています。初学者の方々にとって、とてもとっつきやすいですよ。「やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ」の一冊です。

 

 

■歴史の茶番を避けるために

 

大澤真幸編集の雑誌『THINKING O(オー) 第二号』20105月、左右社

 

大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・選択とは、一般に、一つの「類」(全体)のなかから、ある一つないし少数を選ぶ、ということだとされている。ところが「真の選択」、「根源的な選択」というものは、ある一つないし少数を選択することが、同時に、類(選択肢の全体集合)を選ぶことになるケースである。どの選択肢が、選択肢全体を僭称できるのか。それが争われる場面こそ、抜き差しならない選択である。例えば、首相を選ぶことは、日本全体を選ぶことである。結婚相手を選ぶことは、人生の全体を選ぶことである。ある社会運動に身を投じることは、自分の実存全体を選ぶことである、等々。もちろん、サルトルのいう根源的な選択は、そのつどの選択の累積であるとされているのだが。実際問題として、一つの選択肢が、選択集合全体を代表することは、まれである。ところが私たちは、選択を、そのような根源的なものとして構成することに、実存の契機を織り込みたくなる。

 

・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール一日』の冒頭で、のちに有名となる格言を記している。「歴史上のあらゆる出来事は、二度現れる。ただし一度目は悲劇として、二度目は茶番(笑劇)として。」

 フランス革命は、「自由・平等・友愛」を掲げて制度変革を断行し、結局、悲劇的な結末を迎えるのだが、この同じ革命の理念を、後の世代の人たちが実現しようとしても、それはすでに、目新しい試みではなくなっている。私たちはすでに、フランス革命のような夢を見てしまったのであり、その夢は、後の制度改革において、ぜひとも実現してもらわなければ困るものとして、認識されはじめる。果たされなかった約束を、果たしてもらう。ただそれだけの要求に過ぎなくなってしまう。これではもはや、革命は人びとに夢を与えない。だから革命は、二度目には茶番となってしまう。

 ところがマルクスは、この茶番をいかにして回避するか、という問題を、よく考えた。フランス革命と同じ理念を掲げても、歴史はもはや、茶番にしかならない。むしろ、新しい革命の理念を掲げなければならない。しかもけっして茶番にならない仕方で革命の理念を語ることができれば、その思想は長く人びとの心を捉えるだろう。

それはいかにして可能であろうか。共産主義の革命は、実は、どんな具体的制度にも、決して受肉化されないようにできている。労働者を賃労働から解放し、貨幣を廃止し、コミューン関係を築くというのは、端的に行って、制度化されない理想なのである。だからマルクス主義の革命は、何度やっても茶番にならない。次の革命は、これまでよりも、もっと制度的なビジョンがある、という具合に、つねに新たなビジョンを提起できるようになっている。

 茶番にならない革命。それがマルクスの共産主義革命である。これはフランス革命とは決定的に異なる。フランス革命の理念は、制度に体現できるものである。ところがマルクス主義革命の理念は、制度に体現できない。むしろマルクス主の革命は、人びとを、ある不可能な願望の空間に招き寄せる力をもっている。マルクス、その不可能性の中心。これこそマルクスの魅力ではないか。

 

 

■民主党は保守派を包摂するチャンスだ

 

大澤真幸「緊急発言 普天間基地圏外移設案」朝日出版社、電子書籍、PDF版、2010.5.

 

・大澤真幸様、電子書籍という新しい形態でご論文をご恵存賜り、ありがとうございました。

 

・普天間基地は、日本のどこかに移設するのではなく、消滅させるべきである、という主張。もし鳩山首相がこのような宣言をしたら、どのような事態になるか。小説風の文体を取り入れながら、とてもスリリングに語られている。時事問題として、いま最もホットな問題に、これほど豊かに、また大胆に応じることができるとは、脱帽である。これからはこうした電子書籍というかたちで、一つの論壇のスタイルが成立しそうである。雑誌ではあまり長い論文を載せられなくなっている。

 

・さて、普天間基地問題は、本当に些細な問題で、しかし民主党の外交政策というものが、いかに理想論でしかなかったか、ということを先鋭的に露呈してしまった。保守派の人たちは、多くの場合、新米であり、アメリカに従属することが望ましいと考えている。だが保守派のなかにも、反米で、普天間基地を消滅させることに、賛同する人もいるだろう。保守か、リベラルか、という対立で考えていると、問題は見えてこない。ここは民主党が、真の保守であり、したがってアメリカの属国であることをやめるのだ、という宣言をしてもよいのではないか。保守的な人びとを取り込むための、絶好のチャンスでもあるのだ。

 

・アメリカはいま、オバマ政権のもとで、核軍縮を進めている。そのオバマの英断を支持する立場から、日本は、アメリカの駐留基地を縮小するという提案をしてみてはどうか。オバマ大統領を広島に招き、日本も軍縮に協力できることを、具体的に示してはどうか。核軍縮の国際政治に、日本もできるだけ絡んでいく。そういうシンボリックな政治が必要だ。

 

 

■自意識よりも、観念論との対決を

 

白井聡『「物質」の蜂起をめざして』作品社、2010

 

白井聡様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・レーニンは、意識性か、自然発生性か、という二者択一の問題で「意識性」を選んだのではなく、自然発生性もじつは一つの「形式」であって、この物象化された構造(形式)を、全面的に転覆するという革命の位相に、真の「自由」があると考えた。レーニンが生きていた当時、現実に起きていた革命の過程は、意識性ではなく、自然発生的な爆発であった。しかしレーニンは、そのような自然発生的な爆発に身をゆだねるのではなく、真の革命実践というものがある、と考えた。それはつまり、観念論に対する「全面的対決」の姿勢によって獲得されるという。(244-245)これはつまり、物象化された社会構造を転覆するために、ブルジョア階級と全面的に対決するという活動それ事態が、その実践において、実質的な「自由」であり、力を蜂起させるものであるということではないか。力を蜂起させるためには、自分たちが何であるのかについて、イマージュを通じた自己限定(アイデンティティの獲得)をしてはならない。マルチチュードとか、そういうイメージは必要ない。余計である。むしろ自分が何であるかを問わず、徹底的な対決の叫びをつうじて、未知の力を自分のなかから蜂起させる。それが自由というものではないか。などと考えた。

 

・結論部分では、米原万里の長文が引用され、この引用をもって本書の中核部分が代弁されている。あらゆるモノが貨幣計算されて評価される「商品社会」に対して、売れるか売れないかに関係なく、ものそれ自体の価値がある、あるいは価値とは無関係に、ただそこに勝手に存在する。そういう世界の魅力。いわば大学のサークル棟のような魅力かな。金はない。金とは無関係に活動している、勝手にやりたいことをみんながそれぞれやっている。みんな無愛想である。そういう世界が魅力的。中国社会も、市場経済化される前は十分に無愛想だったけれども。

 

・本書は、レーニンの社会科学的な価値は問わない、としている。(326)

 

 

■もう一人の自分を生きるという欲望

 

井山弘幸・金森修『ワードマップ 現代科学論』新曜社

 

井山弘幸様、金森修様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・アルケール・ロザンヌ・ストーン著『欲望とテクノロジーの戦争』からの逸話が紹介されていて面白い。オンラインで、ネットワーク・セックスを楽しむような人は、ネット上に虚構の人格を作り上げて、その人格を楽しんでいるわけだが、現実には、性的には無能であったり、内気な人であったりする。その独立した人格が、ネット上でどんどん有名になっていくと、収拾がつかなくなる。その暴走が面白い物語を作っていくわけなのだ。ジュリーは、ネット上で、とてもリアルに存在した。テクノロジーが可能にした一人の人格であり、また欲望なのであった。

 

 

■一年を迎えた音楽エッセイ

 

雑誌『Actio20106月号です。

 

小生の連載「橋本努の音楽エッセイ」も、これで1年を迎えました。第12回は「国境を越え多様化し融合する民謡――バルトークA」。ここで紹介したCDは、『くちづてに』です。

 

くちづてに BNSCD8850

 

実力派の女性ヴォーカル三人が、実に深いハーモニーを響かせます。

21世紀のハンガリー民謡は、ポップでシックでエスニック。

 

 

■パワーからコンピテンシーへ

20100525

 

拙稿「ポスト近代社会における労働と能力の再編」を書き上げました。いずれ、本田由紀編『労働再審』第一巻、大月書店、に所収予定です。

 

おもに次のような関心から。

 

 近代社会からポスト近代社会への移行にともなって、労働の能力観に大きな変化が生じている。単一のパワーで構成される「労働力(labor power)」から、多方向へ発揮できる「労働能力(labor competency)」へ。「パワー」から「コンピテンシー」への転換とともに、現在、労働能力に対する過剰な要請が生まれている。たとえ儲けがでなくても、自己の潜在能力を無限に開発せよ。というのもそれが創造資本の蓄積となって資本主義を駆動するのだから、というわけである。はたしてこの要請は、現代の資本主義にどれほど適っているのだろうか。潜在能力の発現は、経済とは無関係に求められる教育的な理想なのだろうか。

 

 パワーからコンピテンシーへの理念的な移行を理論化しています。それから、いろいろと展開して、最後は、アンダーグラウンドの意義について論じています。

 

 

■メディア人間のポテンシャルとつまらない日常

 

和田伸一郎著『存在論的メディア論 ハイデガーとヴィリリオ』新曜社、2004

 

和田伸一郎様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・メディア利用者は、メディア技術の世界においては、高速度で移動することができる。メディア利用者は、遊牧民であり、メディアの世界では「実存」を問われることなく、「脱-存」として存在する。しかしその存在は、メディアの背後に後ずさりしているのであり、どこにもいかず、ただ定住している、つまらない存在。メディア利用者は、メディアによって頽落しており、不活性であり、惰性で生きている。そんな実存者として、メディアは、存在者の存在を拘束している。

 

・どこにも行かずに、じっとしたまま、高速の経験をすることができるというメディア社会。私たちは、実存としてはほとんど可能性を持たないが、メディア技術の可能性を実験的に試みるかぎりにおいて、メディア技術のポテンシャルを開拓していくことができる。存在のポテンシャルではなく、技術のポテンシャルのフロンティアとなる。ポテンシャルの高い「脱-存」になることが、メディア時代の「能力の全面開花」を方向付けている。

 

・実存的なヒューマニズムから、最も隔たったところに、メディア人間の脱-存があり、またポテンシャルの試行として生きるような理想がある。そこでは、「人間性」とか「主体性」の理想は、通用しない。近代人は、メディアに操られる人間になるか、それとも、メディアに操られない自律した人間になるか、という問いを立てた。これに対して、私たちのロスト近代社会においては、メディアを享受する際に、たんに受動的に頽落するのか、それともメディア技術を駆使してそのフロンティアを広げるのか、という具合に問いを立てることができるだろう。実存の美徳よりも、潜在であることの美徳が称揚される。そのようにしないと、技術フロンティアを開拓できないのだ。ロスト近代の駆動因は、技術ポテンシャルのフロンティア探究者である、ということになる。しかしメディア人間の存在そのものは、つまらない定住的実存に拘束されている。

 

 

■フレクシブルな働き方の思想的問題

 

安孫子誠男/水島治郎編『持続可能な福祉社会へ 3 労働』勁草書房、2010

 

若森みどり様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・エステベス・アベによる社会的保護と技能タイプの分類は重要。『資本主義の多様性』所収論文。雇用保護の水準を引き下げて、失業保護の水準(職業訓練など)を引き上げる。そのようにして、労働のフレクシビリティを高めながら、セキュリティも同時に高めていく。この方向に制度を変革した場合、労働観にどのような変化が生じるだろうか。

 

・おそらく、職業の「格」や「威信スコア」といったものが流動化するだろう。あるいは威信財の価値は、人間の評価をめぐって、相対化されるだろう。格や威信を求めて、一定の「職能社会」に組み込まれていくというよりも、職業の格や威信をフレクシブルに変更しつつ、生活のセキュリティを保障されるような、能力開発と安心を優先する社会。そこでは、人々は、一定の職能を果たすことによって社会に貢献するのではなく、社会の変化に応じて適応していかなければならない。するとそこでは、自分の職業を変化させても生きていくという幅のある力が、評価されるであろう。大きな「変化への適応」こそ、労働の美徳となるのではないだろうか。

 

・いろいろな職業を経験した人、いろいろなアルバイトを経験した人が、「話の面白い人」として評価され、代わって、一つの職業に縛られた人は、「話の面白くない人」として、あまり評価されなくなる。そんな社会はすでに到来している、といえるかもしれない。

 

・カール・ポランニーは、1920年代のドイツやイタリアが、19世紀のイギリス市場経済モデルを導入しようとして、失敗したと考えた。長い時間をかけて育まれた市場取引の慣習がなければ、市場経済の導入は、その社会の伝統的な絆を破壊してしまう。そこで市場経済化の波が押し寄せてきたときにとりうる選択肢は、三つあるだろう。一つは、ゆっくりと市場経済を導入して、市場の慣習を育むという方途。いわば、社会に埋め込まれた市場を、ゆっくり実現するのである。もう一つは、民主的な政府が、所得分配や規制や財政政策を主導して、政府がイメージする福祉社会に、埋め込まれた市場経済を実現していく方途。これは、進歩主義的な解決である。第三に、市場経済をできるだけ導入しないで、伝統的な経済の慣習を保持すること。伝統主義的で、保守的な解決。

 

・ポランニーの立場は、第二の立場であろう。その場合の難問は、民主的な政府は、経済民主主義を実現できるか、という点にある。民主主義の主体は、市民であり、計画経済の理想と、埋め込むに値する文脈の再創造を、アウフヘーベンすることができなければならない。これは途上国政府の官僚なら誰しも思い当たるメンタリティではないか。

 

・市場経済の開放性を迫るアングロ・サクソンの強国と、それを阻止しようとする途上国政府の言い分、という構図。

 

 

■日本学術会議、立法学分科会

 

6/1の会議は、斎藤純一先生の発表でした。

 

・『思想』論文「政治的空間における理由と情念」をベースにした発表。以下、私の考察です。

 

・ある体制の政治的正当化は、最終的な審級における理由(理念)の正当性によって与えられるのではなく、最初のヒューリスティックな段階化から始まる、正当化実践の過程の全体によって与えられる。とすれば、初発の段階では、人びとのanger (正義や不正義の要素を含んだ怒りindignationではないような怒り)の表現も、私たちは、政治的に正当なものとして遇しなければならない。私たちの正義感覚が誤りうる、という可謬主義の前提に立てば、angerも、不正義の要求として認められるかもしれないからである。

 

・この可謬主義と正当化の実践的全体論の立場に立ってみよう。すると私たちは、政治道徳として、正義や不正義のたんなる「sense」以上の感情をもって、他者と交流しなければならない、ということなる。たんに正義/不正義の感覚を養うのではなく、Emotion, feeling, passion, sentiment,等の感情を動員して、他者によって自分を脱中心化して、政治的正当化の実践を試みなければならない。

 

・政治的正当化の実践は、短期的で強い感情に突き動かされる状態から出発する。そして、それを政策のパッケージに実現する際には、穏やかなcalm感情になって、再び人びとの元へと戻されるのでなければならない。これは、ラクラウのいうequivalent chainという考え方である。格差問題やワーキング・プアの問題は、広く国民の感情を政治的に動員することに成功したといえる。しかし、それを政策のパッケージに受肉化する際に、はたして安倍政権や鳩山政権は、国民感情を納得のいく仕方で穏和なものへと鎮めることができたのか。それが政治的統治術として問われることになる。この問題は、いったいゼロ年代の格差問題とは何であったのか、という観点から検証されなければならない。

 

・強い偏見や感情を持った人に、知識や情報を与えれば、その感情は穏和化される、という発想は、危ういだろう。むしろ知識や情報が与えられると、私たちはジレンマに立たされ、激昂するかもしれない。大衆的な市民の政治においては、まさに、自分を動機付ける感情要因が、同時に、「正当な理由」と結びついていなければならない。正当な理由が行為を動機づける感情要因と結びついた場合に、よい政治が可能になる、と発想するのが、大衆的な市民社会論の立場。これに対して、動機付ける感情要因が、正当な理由と結びつかなくてもよいとみなす諸々の立場が対立する。

 

 

■コモンズの豊かさについて

 

・雑誌『atプラス 04

 

・編集部、小原央明さま、ご恵存たまわり、ありがとうございました。

 

・大澤真幸「革命は夢ではなく、可能なる現実である」を、大変興味深く読みました。この大澤さんの論文の後続で、小生がリレー論文を書くというのは、しかし、大変なことです。気が重くなりました。

 

・ネグリ=ハートのいう三つのコモンズ。第一に、外的自然、第二に、内的自然としてのDNA、第三に、文化的なもの、とくにコミュニケーションの道具や知財。プロレタリアートは、これら三つのコモンズから疎外されている。第一に、私たちは、人工的な擬似自然環境のなかでのみ生かされており、外的自然の価値を享受することができない。第二に、私たちは、遺伝子情報を読み取られるロボットのような状況に、追い込まれている。第三に、私たちは、知財へのアクセスを奪われ、文化的なコミュニケーションから疎外されている。

 

・自然の内在的な価値を享受するためには、コモンズを取り戻さなければならない。ただこれを私有財産の破棄というラディカルな思想に結びつけるのは、早急であろう。第二、第三の問題とその解決は共有できるとして、では、外的自然からの疎外という第一の問題は、どうだろう。「自然の本来的な価値」を享受するために、私たちは、生物の多様性を保護することができる。では保護された生物多様性は、私たちの精神に、いかなる疎外克服の契機を与えてくれるのだろうか。それが問題。生物多様性の経験を、もっとロマン主義化して享受することが必要になる。

 

 

■団地を語ると、人生の半分を語ることになる

 

原武史/重松清著『団地の時代』新潮選書、2010

 

・原武史様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・いつもの会話と同じことがたくさん語られていますね。楽しいです。

 

1960年に、皇太子ご夫妻が、ひばりが丘団地を訪れている。それから1973年まで、すなわち住宅の供給が需要に追いつくまで、公団の団地は、日本社会の新しい文化を主導することになった。

 

・実は、小生の人生は、その団地文化とともにあったのです。公団の団地文化について語ることは、自分の半生を語ることにもなる。私は、滝山団地を訪れたことはないですけれども、本書に掲載されているその写真の風景は、まるで自分の故郷であるかのように感じてしまいました。どうしてでしょうか。胸が苦しくなるほどの、懐かしさがありました。もう一度、この風景に埋没してみたい。

 

 

■中世の人びとにとって自由とは

 

東島誠『自由にしてケシカラン人々の世紀』講談社メチエ、2010

 

・東島誠様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・歴史のなかで、可能態が隆起する点に焦点を当てる、そういう関心から書かれているのですね。問題設定そのものに、共感します。

 

・自由という中世語は、「勝手し放題」という意味。「自由の至りなり」とは「誠にケシカラン」という意味。52

 

・後醍醐天皇のブレーンの一人、智暁(ちきょう)。彼は1324年に「無礼講」の酒池肉林を差配した。身分の差なく公会飲食するために、17-18歳くらいの若くて美しい女性に裸同然で酌をさせたという。こうしたいわば乱交パーティーは、しかし、正統に対比される異端の行いではなく、正統だがアブノーマルなものであるといえるだろう。それは、可能態の噴出であり、マルクスのいう共産主義の第一段階とも符合する。男女共有の思想である。

 

・あらゆる規範が無に帰するような事態が、規範の中枢で起こり、そしてその侵犯が、これまで抑圧されていたあらゆる可能態を現実のものとする。異類異形の世界によって「一揆」のフェーズを実現する。そのエネルギーによって、既存の政権を転覆する体勢になる。これは「可能と多元」の一つのモチーフになるだろう。

 

 

■新訳で蘇る初期マルクス

 

マルクス『経済学・哲学草稿』光文社文庫、2010

 

・長谷川宏様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・大学生の頃、岩波文庫版で、必死に読んだことを思い出します。「疎外」にはいろいろな特徴があって、これは、どの意味での「疎外」なのかという解釈を、いちいち考えました。当時の私にとって、本書は難解でしたけれども、本書を読んで人生観が変わりました。とにかく興奮状態で読みました。

 

・とくに20代の方へ、おすすめしたいです。マルクスが20代のとき、どんな思考を働かせていたのか、興味深いと思いませんか。この歳で、この思考力。格闘するに値する本です。「古典」にふさわしい理由があります。

 

・今回の新訳は、とても読みやすく、思考をかきたてます。長谷川宏さんの訳では、ヘーゲル『精神現象学』もすばらしいです。概念の持つ意味を、一つの文章として自由に躍動的に表現していますから、一つ一つの言葉をベグライフェン(観念的に扮戯)する作業が、動的なイメージをもって現われてきます。

 

・翻訳家とは、いわば、クラシック音楽の演奏家のようなもの。自由な解釈によって、作品の本質に至ることができるのです。ただたんに、硬直した直訳をすればよいという時代は過ぎ去りました。自由に、しかし本質に迫るような翻訳=演奏の方法を、翻訳の至芸から学びたい。

 

 

■福祉関係の仕事に就く人は必読

 

小峯敦編『福祉の経済思想家たち 増補改訂版』ナカニシヤ出版、2010

 

・小峯敦様、著者の皆様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・改訂増補版で、ますます教科書・参考書としての利便性、解説力を増しましたね! レポート執筆のためのヒント、というものがあって、これは執筆者の皆さんのすぐれた教育力、授業力を反映しています。とても参考になりました。まさに、至れり尽くせりの分かりやすさです。学部学生、一年生に、お勧めの一冊です。

 

 

■潜在能力がないので解雇、という論理に反対

 

リチャード・セネット『不安な経済/漂流する個人』森田典正訳、大月書店、2008

 

・森田典正様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・セネットは職人芸の仕事を保守する立場から、現代の資本主義を批判しています。能力主義とは、もともと、下層に生まれた能力のある人(「自然の貴族」)を抜擢することからはじまった、といえます。それが組織的に行われるようになると、世襲の特権階級と、自然の貴族階級との競争を組織化する形で、才能の発掘を制度化するようになる。さらに能力主義は、労働者を選別して、解雇するための基準としても、用いられるようになる。「潜在能力に欠けるから」という理由で解雇されると、それはその人にとって人格をまるごと否定されたような打撃になるだろう。セネットが批判するのは、将来性という観点から評価するような社会であり、これに代えて、過去の業績をしっかり評価できるような社会を展望している。

 

 

■ランド研究所、恐るべし

 

上山隆大『アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在』NTT出版、2010

 

・上山隆大様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・ランド研究所について、詳しく書かれていて興味深く思いました。第二次世界大戦の戦時中には、B29の空爆のシミュレーションを作っていたんですね。アローの不可能性定理も、この研究所で、仮想敵国の効用関数を特定するという研究の副産物として生まれている。興味深いです。

 

・ランド研究所は、いま、バイオミミクリーを応用した農業にも取り組んでいるという。この点については、いずれ私が紹介する予定です。

 

 

■確率論

 

ケインズ『ケインズ全集 8 確率論』東洋経済新報社、2010

 

・佐藤隆三様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・ようやく出ましたね! ケインズが若い頃に取り組んだ確率論研究の翻訳が、ついに刊行されました。この本については、小生も20代の時の思い入れがあり、書評を書きました。そちらをご笑覧いただけるとさいわいです。『東洋経済』201087日号、所収。

 

 

■不安が呼び寄せる強権力

 

山之内靖/島村賢一編『21世紀への挑戦 1 哲学・社会・環境』日本経済評論社、2010

 

・井上芳保様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・ご高論「構築される健康不安と犯罪不安を問う」を興味深く読みました。べてるの家の紹介が中心的な位置を占めていますね。健康不安や犯罪不安から、権力が作動する。そういう権力を批判するためには、私たちは健康でなくても、また罪を犯しても、社会から排除されないような環境を作る必要がある。これはアナキズムの要請ですね。何か問題が起きても、それを政府に解決してもらうのではなく、自分の受苦、あるいは私たちの受苦として捉えるということですから、これは自由主義の要請でもあるのではないでしょうか。

 

 

■これをついに訳したか! 見識ある日経BP社に賛辞を

 

ヘンリー・ハズリット『世界一シンプルな経済学』村井章子訳、日経BPクラシックス、2010

 

・村井章子様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・本書はアメリカ人がいまだに経済学の入門書として読みついでいる古典中の古典。これを翻訳するとは、日経BP社の慧眼というべきであろう。ハズリットはニューヨーク・タイムズの記者でもあり、彼は当時、ルードウィッヒ・フォン・ミーゼスを発掘して絶賛したことでも知られる。いわばアメリカにおけるオーストリア学派の基盤を築いた人の一人だ。小生がはじめてニューヨークのオーストリア学派セミナーに参加したとき、ある白人の中年サラリーマンが、本書を絶賛していたことを思い出す。とにかく入門書として、本書を読め、というわけだ。分かりやすく、しかも当時のニューディール的発想をことごとく批判する点で挑発的。初版は1946年。歴史に耐えた重要書といえるだろう。

 

 

■愛は、相手の欲していないものを惜しみなく与えること

 

大澤真幸編集の雑誌『THINKING O(オー) 第4号』20107月、左右社

 

・大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・特集「もうひとつの1Q84」、とても面白く拝読しました。もし村上春樹の小説に未来的な思想の萌芽があるとすれば、それは愛の問題だ、という読み込み。愛は、相手の欲していないものを、惜しみなく与えることでなければならない。もし相手に対して、相手が欲しているものをあげるだけなら、二人の関係はたんなる利益関係であって、相手にとってそれは、利益になるだけにすぎない。だが愛は、利益関係を超えたところに、純粋なものとして成立するのではないか。だとすれば、相手が欲していないものを、相手に与えることが、その表現でなければならない。では相手の欲していないものを与えて、愛されない場合、嫌われる場合はどうなのだろう。それでも純粋な片思いは成立する。

 

1968年を頂点にして、「理想の時代」はその後、リンチ事件に代表されるような、末期的な症状をみせた。けれどもこの時代は、別の観点から見れば、見田のいう「夢の時代」でもあった。人々はコミューンを夢見て、生活協同組合や、三里塚闘争や、公害問題への取り組みなど、共振できる人間関係を求めて、オルタナティヴな実践に向かっていた。これらの「夢」を追い求める人たちは、ある程度まで実行可能な、しかも健全な、夢を追っていたということができる。

 

・原理主義者は、「知」と「信」を重ねてしまうが、本当の信仰は、「知」と矛盾するがゆえに、純粋な「信」になる、ということ。

 

 

■所有論から現代の貨幣論へ

 

高橋一行『所有論』御茶ノ水書房、2010

 

・高橋一行様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・小生の『帝国の条件』における貨幣論を批判的に検討していただき、光栄です。ありがとうございました! ロックからはじまる所有論の最後に、世界貨幣の問題にいたるのですね。

 

 

■重厚な研究書

 

只腰親和/佐々木憲介編『イギリス経済学における方法論の展開』昭和堂、2010

 

・佐々木憲介先生、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・編著でありながら、これだけテーマが統一的で、かつ研究分担の行き届いた差配が実現していることに、驚きを感じました。数年間に及ぶ共同研究の成果なのですね、しかも価格が安いですね! 序章を読めば、全体像がつかめます。

 

 

■この奇怪な書こそ、経済哲学という分野の自由度だ

 

アリオ・クラマー『経済学は会話である』後藤和子・中谷武雄監訳、日本経済評論社、2010

 

・後藤和子様、中谷武雄様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・クラマーは現代の鬼才ですね! クラマーの本は、前から読んでみたいと思っていたのですが、翻訳で読めるようになるとは、とてもうれしいです。これこそ、経済哲学の醍醐味ですね、マニアというか。とにかくこの分野の研究は、自由度がかなり大きくて、オリジナルな議論を立てやすいといえます。いったいどんな方向に、哲学的な思考が向かうのか、その人の個性に依存しているところがあって、クラマーはとても自由な人のようです。

 

70年代によく読まれた社会学の理論書として、シュッツを継承するバーガーとルックマンの日常構成学派の議論がありました。クラマーはそのような方向で経済学を日常的な意味構成のなかに再構成するという、とても野心的な仕事をしているのだと思います。専門化された経済学になぜ私たちは馴染めないのか、また経済学者本人も、なぜ一般人にその専門性がもつ特殊性をうまく説明できないのか。大切なことは会話に入る、会話に馴染むことなのですが、そのためのいわば「リハビリテーション」をひとつの哲学にしてしまうわけですからね。

 

 

■講演から生まれた読み応えのある二編

 

大澤真幸『生きるための自由論』河出ブックス、2010

 

・大澤真幸様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・ウェッブ論座/シノドス・ジャーナル等でも取り上げて紹介しましたが、とても面白く拝読しました。自由とは、自己の欲望を満たすことであるとして、でも、その欲望は、実は、他者の欲望を組み込んだものになっているとすれば、どうなるか。結局、他人の欲望を満たすことが、自分の欲望を満たすことになるとすれば、個人的な利害を追求することが、連帯的な利害を追求することに結びつく。それだけでない。私たちは、いったい、誰の欲望を満たそうとしているのか。それはみんなの欲望であるとして、みんなとは、誰が決めるものなのか。実は、誰もがその欲望にとって他者であって、言い換えれば、各個人は、だれでもない他者の欲望を組み込んでいるのではないか。

 そんなことを考え始めると、自由というのは、大変な問題になる。誰でもない他者の欲望まで満たさなければならないとすれば、そうしなければ自由になれないとすれば、どのような生き方が求められるのだろうか、と。

 

 

■大学生、就職活動に必要な一冊ですよ!

 

『現代用語の基礎知識2011

 

・編集長清水均様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・小生が大学生の頃、毎年必至に読みました。今年で63周年、いまもその重要性は変わらないのですね。就職活動に必要な社会常識は、これ一冊でしっかりと学べます。面接やディスカッションなどで必要なボキャブラリーというのは、こういう、時事問題の用語です。

 

 

■不調和を爆発させよ

 

石井洋二郎『科学から空想へ よみがえるフーリエ』藤原書店、2009

 

・石井洋二郎様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・今頃になって恐縮ですが、とても面白く読ませていただきました。タイトル「科学から空想へ」というキャッチフレーズが、まず他人事ではないほど共感してしまいます。小生が考えているのは、エンゲルスを否定して、空想を復権することで、空想的自由主義とでも呼べるような思想を展開することです。そのための資源として、フーリエはとても参考になります。

 

・とても面白いのは、フーリエがオーウェンを否定するところです。「協同社会制度においては調和と同じだけの不調和が必要なのだ。不調和からまず始めなければならないといってもいい。そして情念系列のファランジュ(1,800人からなる協同社会的カントン)を形成するには、調和を組織する前に、少なくとも五万の不調和を爆発させなければならない。」(フーリエ、ご高書127頁より引用)これはあらゆる想像力をかき立てます。

 

 

■サブカル社会学必携、すごすぎる分析

 

第二次惑星開発委員会、雑誌『PLANETSvol.7.

 

・編集長宇野常寛様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・毎回、本当に驚かされます。この編集力は、お世辞ではなく、世界一です。今回の批評で、ファミコンを一つの基点とするゲームの歴史社会学的な検討は、ものすごい情報量ですね。圧巻でした。日本人は、どんなふうに遊ぶようになったのか。考えさせられます。

 

 

■アメリカのイスラム研究の現在

 

レザー・アスラン『仮想戦争』白須英子訳、藤原書店、2010

 

・白須英子様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・著者のレザー・アスランは1972年生まれ。イラン革命のときに両親と共にアメリカに亡命したという。イスラムの「悲憤(grievance)」とはなにか。それを理解することから、国際関係ははじまるという。イスラムでは近代化とともに、アトム化された個人が「自由の不安」を抱くようになっている。その不安が悲憤になるとき、自身の帰属意識は「原理主義」へと向かうのだろう。しかし、原理主義的行動原理は、文明間の対立をもたらすのであって、アイデンティティの追求は戦争を解決しない。原理主義とは、コズミックな、宇宙論的な秩序が一定の文脈に担保されている世界を求める。だが、そのような宇宙は、近世の出現と共に崩壊していったのであって、求めるべきはコズミックではないような、文化の原理であり、したがってまた帰属意識なのであるが、それはどんな仕方で獲得されるのだろうか。重要なのは、帰属意識への希求が、戦争によってシンボリックに満たされることがないように、その代替となる文化を支援していく必要があるということ。

 

 

■逆説明責任という政治

 

斉藤淳『自民党長期政権の政治経済学』勁草書房、2010

 

・斉藤淳様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・政治家や政党が、有権者からの支持を求めて互いに切磋琢磨するというのではなく、その反対に、有権者の側が、政権を握っている政治家や政党の利益誘導を求めて、互いに競争する。そのような状況をperverse accountabilityという。「逆説明責任」、あるいは説明責任の倒錯状態である。そのような状況が、自民党長期政権の下で生じていた。

 

・そのような「逆説明責任」を課す自民党の利益誘導は、どんな条件の下で可能だったのか。例えば、地域共同体や各種団体によって、互いに他の団体を監視できる場合には、そしてまた、報復戦略が有効な場合には、各利益団体は、とにかく自民党を支持しないと、マイナスの影響をこうむってしまう。ということは、地域社会が共同体主義的に形成されている場合には、また各団体が濃密なコミュニケーションをしている場合には、それだけ「逆説明責任」の可能性が生まれるということだろうか。

 

 

■魅力的な教師たちに導かれてこそ

 

江頭進・澤辺紀生・橋本敬・西部忠・吉田雅明編『進化経済学 基礎』日本経済評論社、2010

 

・江頭進様、澤辺紀生様、橋本敬様、西部忠様、吉田雅明様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・進化経済学という新しい研究分野も、こうしてついに、通常パラダイムとして確立していくのですね。画期的な達成だと思います。読ませます。学生にぜひ手にとってもらいたいです。魅力的な教師たちは、やはり魅力的な書き手であります。そういう人たちにナビゲートされて学問に入門するのが、一番です。本書はとても魅力的な語り口です。

 

・つねに戻ってくるのは、私にとって、バッファーとしての在庫、という認識です。これはとても想像力をかきたてますし、それ自体として、進化経済学の大きな認識的利得であるように見えます。バッファーは、おそらく、個人の消費行動にもあるでしょうね。貨幣をもつということが、すでにバッファーといえますが、あるいは個人は、自分の家に在庫を置いておくでしょうし、また、自分の選好(関数)を曖昧にしておくことができるのも、バッファーとしての機能といえるかもしれません。

 

 

■ピューリタンは社会構想力をもっていた

 

梅津順一『ヴェーバーとピューリタニズム 神と富との間』新教出版社、2010

 

・梅津順一様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・バクスターのさまざまな著作を、丹念に紹介されているところが、とても勉強になりました。バクスターという人は、ウェーバーが紹介しているよりも、もっと深く、人間を観察していることが分かります。いわゆる道徳哲学などよりも、だんぜんに人間学的な含蓄に満ちています。バクスターを尊敬できるようになりました。

 

・このピューリタニズムの労働観が、社会構想としては、「慈愛の共同体」へと向かい、やがて福祉国家を形成するような実践に至ったことは、重要な理路です。ウェーバーは、ピューリタニズムの実存的な関心や精神の起動力に焦点を当てていますが、バクスターの社会構想力に焦点を当てるならば、別の思想史的な流れを描くことができますね。

 

・慈愛の共同体が、近代の福祉国家へとつながっていく。ウェーバーは社会民主主義的な発想を嫌っていたわけですが、むしろピューリタニズムの思想は社会民主主義を用意したのであり、その精神は制度に結実したといえるでしょう。この制度的結実は、しかし、精神なき専門人を生むことになるとしても、です。ピューリタンは、パーリア知識人ではなく、社会構想のユートピアを掲げていたことは、共感できます。いずれにせよウェーバーの関心は、官僚制機構が「鉄の檻」になっていく点にあったので、資本主義の下での大企業にせよ、社会民主主義の下での政治機構にせよ、精神が失われていく点を問題にしたでしょうけれども。

 

 

■国債の発行という国家主権を、だれが制約できるのか

 

森直人『ヒュームにおける正義と統治 文明の両義性』創文社、2010

 

・森直人様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・これまでの研究史を踏まえたうえで、その盲点となる部分を読み解き、十分な含意を引き出した好著だと思います。これだけヒューム研究の蓄積があるところで、一つのブレスクスルーではないでしょうか。

 

・もちろんヒュームの政治学は、まともな感覚で書かれているので、何か原理的な理論に基づいて厳しく文明を批判するという感じではないですよね。ただ現在の日本のように、国債の発行によって巨額の財政赤字を埋め合わせるという状況に照らしてみると、ヒュームの観察は、やはり重要な警告を与えているようにみえます。

 

・ヒュームは、人間本性のすべてを信頼していたわけではないので、国家介入をある程度まで認めるわけですが、公債については、それは人々が民主的な判断で導入するとしても、結果として国家を弱体化させ、専制権力を呼び寄せることになるかもしれない、と考えている。そうなると何が必要か、と言えば、国家が公債を発行する「主権」を、なんらかの仕方で制約するような、国際的に普遍的な理念であり、その理念によって、市場社会を統治しなければならない、ということになる。この点をヒュームは展望していたのでしょうね。閉じた国家ではなく、開かれた国家。それは国際関係の中で可能になるわけで、グローバルな統治が必要であることの、一つの根本的な問題提起であるようにみえます。

 

 

■入門書として最適ですよ

 

仲正昌樹『ポストモダンの正義論』2010年、筑摩書房

 

・仲正昌樹様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・思想史の料理の仕方がすばらしいと思います。近代からポスト近代への以降は、つまるところ、「進歩」という考え方が有効ではなくなった、ということですよね。で、いま私たちは、ポスト近代(1980年代以降)の「進歩否定」的な考え方を継承しているのかというと、そうともいえない。私たちは、「閉塞感」という言葉をよく使っています。「閉塞感」がある、というのは、やはりその先の歴史、その先の社会ビジョンに、到達できないことのストレスでしょう。

 

・閉塞感は、つまり「進歩などいらない」といったポスト近代の思想の陥穽ではないか。そのように感じました。でもポスト近代の正義論は、もっと等身大の、ミニマルな要求しか掲げていないようなので、規範理論として「ミニマル」であることと、「閉塞感」は、やはり共存するだろう、と。そのようにも感じます。

 

・いつもご著書を「あとがき」から読ませていただくのですが、面白いです。40代後半をどう生きるか、という。いずれにせよ、本書を、思想史に関心のあるすべての方に読んでいただきたいです。

 

 

■つながることに幸福を感じる

 

宇野重規編『政治の発見4 つながる』風行社、2010

 

・宇野重規様、坂口緑様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・坂口様、デンマークの幼稚園の話、いいですよね。成功している幼稚園のすばらしさは、いったいどんな思想的意義があるのかというと、それは家族や近所といった親密圏と、国家や地域といった公共圏のあいだの「中間的な領域」で、なにかすぐれた媒介ができている、ということですよね。それが「園児たちを平等に扱う、承認する」という実践であれば、コミュニタリアニズムの心理学的な基礎を提供するのだ、と。

 

・ロールズは、家族の愛のなかで、子供が主体性を育んでいく、と想定していますが、そうすると家族がうまくいかない場合の法的問題はどうなるのか、という問題が生じます。また、幼稚園や小学校のような教育をどのように位置づけるか、という問題も生じます。リベラリズムの基本定理を批判するためには、この二つに応じる必要がありますよね。

 

・平等な関係の中で承認される場が必要、というのは、大人にとってみれば、「飲み会」のような場所でしょうね。でもやはり、幼稚園での実践のような、あの包摂された関係に戻りたいという感覚は、誰しもあるのではないでしょうか。この点で、オーウェンの自伝は面白いですよね。幼稚園教育に革命的な実践を導入し、ベンサムもこれを支持したという。

 

 

■韓国人から何を学ぶべきか

 

小倉紀蔵『ハイブリッド化する日韓』NTT出版、2010

 

・小倉紀蔵様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・日本人はよく、日本のおいしい料理を食べて、「日本人に生まれてよかった〜!」などといいますが、韓国人にはこの感覚が分からないというのですね。どうしておいしい料理を食べると、それが愛国心の感情に結びつくのだろうか。韓国人の若者は、韓国が嫌い、ということが多いようで、この違い、つまり日本好きの日本人と、韓国嫌いの韓国人が、めぐりめぐって、経済のダイナミズムにも影響を及ぼしているのではないだろうかと感じました。

 

・韓国人の若者は、韓国が嫌いだから、外国に出る。するとその経験が生かされて、韓国企業はさまざまな国に進出して、マーケットを獲得することができる。ところが日本人はあまりにも日本が好きで、日本を出て生活したいという若者が少なくなってきましたよね。そうなると、グローバルな経済で市場シェアを失ってしまう。まさに日本人は、「居心地のよい社会」を作ってしまったがゆえに、経済的に衰退する、という論理です。

 

・でも、韓国人の成功も、基本的には、アメリカや日本を手本にするということで成り立ってきたのであって、これからどうなるのかは分からないですよね。問題はやはりグローバル市場の開拓力でしょうか。日本企業は、日本人を世界の各地に派遣するのか、それとも現地のエリートを雇うのか。後者を選択する方向が、どこまで通用するのか、という問題がありますね。

 

 

■新しい公共性を知るためのテキスト

 

山脇直司/押村高編『アクセス 公共学』日本経済評論社、2010

 

・山脇直司様、押村高様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・小林先生の最初の論文で、「リベラル公共」と「コミュナル公共」を分けていますが、この点について。リベラル公共とは、リベラリズム、あるいはリベラルな共和主義者が掲げている「公共」の理念で、それは「公開性(オープンネス)」ということになる。これに対して「コミュナル公共」というのは、コミュニタリアニズム、あるいはコミュニタリアンの共和主義者がかかげている理念で、それは多くの人々に共通する意見の一致や同一性をもった価値ですね。各人はそれぞれ相違点や差異があるとしても、それを超えたところに、何らかの共通性を持っている。その共通性を「価値」として掲げる場合には、「コミュナル公共」となる。

 

・いま「新しい公共調査会」ということで、民主党がNPO, NGOの再編を検討していますが、その場合に必要な「新しい公共性の理念」とは、なんでしょうか。いろいろあるでしょうが、「リベラル公共」も「コミュナル公共」も、さらにその他の公共理念も求められているのでしょう。NPO, NGOが、国家の共通善のために活動するという場合、それは「コミュナル公共」です。でも、NPO, NGOを、まさに国家と距離を置きながら動員し、促進し、包摂するための統治術に関わる「理念」は、やはり「分散統治」のための「別の公共性」であり、いまそれが求められているようにみえます。

 

・この点は別の機会に検討するとして、「コミュナル公共」は、実はその人の人格を承認すると同時に、その人の人格を共同体の超越的な人格と同一視するという、二つの側面がありますね。この二つの側面を動態的なプロセスと考えて、承認の過程が、個人の人格の発達と、国家の発展の、両方を可能にするためには、どんな公共性の理念が必要なのか。「コミュナル公共」のいう「共通善」を、いかに解釈するのかという問題です。コミュニタリアニズムと成長論的自由主義のあいだの関係は、この問題をめぐって争われるだろうと思いますが、多くの点で共通するだろうとも思いました。

 

 

■国民の福利を考える

 

中野剛志編『成長なき時代の「国家」を構想する』ナカニシヤ出版、2010

 

中野剛志様、五野井郁夫様、それから執筆者すべての皆様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・日本という国をこれから作っていく、そのための若き才能とエネルギーに満ちた本ですね。基本的な発想として、GDPよりもよい指標を「国民福利」として考える。そしてその指標を満たすように、経済政策を考えていく。それはGDPという指標が支配的になった高度経済成長期から、ずっと課題でありつづけているわけですが、本気でこれを進めるためには、何かもう一つ、必要なことがあるような。

 

・それが分かれば、国家の構想は、すべてうまくいくようにも見えます。新たに別の有効な指標を作れば、右派も左派も納得するのではないか。保守も進歩も納得するのではないか。けれども、そういう方向に議論を持っていくためには、まず右派だったらどんな指標を大切にするか、といった議論を積み重ねるほかないでしょう。ただ、それぞれの立場の人たちが、実はふたを開けてみると、同じ経済政策を支持していたりするので、経済政策というのは、思想的に扱いにくい面がある。やはり指標の中身で争うような、そういう議論を、いま思想界で活躍している人たちに投げかけて見たいですね。いろいろと触発されました。

 

 

■文化は、過剰な営みなのです

 

斉藤美奈子『月夜にランタン』筑摩書房、2010

 

・斎藤美奈子様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・面白いです。この五年間の世相を、これほど濃密に分析しながら、しかも明るく楽しいのですから。月夜にランタンとは、「余計なことをする」とか「無駄に明るい」という意味ですが、そういう精神で社会を観察することは、本当に愉快ですね!

 

・安倍政権の崩壊と自民党の迷走、地球温暖化、格差社会論、ロスジェネ、シングル女性の老後、などなど、この五年間でテーマとなっているのは、どれも深刻で暗いことばかり。最大のテーマは、やはり格差社会論でしょう。でもそうした世相を笑い飛ばすことができるのは、それをめぐって書かれた本が、どうも胡散臭いところが多々あるから。それをネタに、読者の健全な嗅覚を働かせることができるからでしょう。

 

・とくに「年収別」に編集された主婦雑誌の費用対効果、はとても面白かったです。

 

 

■高校生・大学生の皆様、マルクスの入門書として最適ですよ

 

橋爪大三郎『FOR BIGINNERS 労働者の味方 マルクス』現代書館、2010

 

・橋爪大三郎様、ご恵存賜りありがとうございました。

 

・マルクス理解は、マルクス以前の社会思想を踏まえること、それから、マルクス以降の政治を踏まえること、この二つによってうまくいくということですね。類まれな入門書です。これほど詰まった内容を、しかも分かりやすく軽快に表現した本はないと思います。おそらく。

 

・実は私も、講義でマルクスを論じると、「マルクスのいい入門書はありませんか」と学生に質問されることが多かったのです。しかしいい入門書はなかったのです。あえて言えば、このFOR BIGINNERシリーズの、以前の本の翻訳がよかった。結構、マニアックに書かれてはいるけれど。ところが橋爪先生は、それよりもはるかに分かりやすく、しかも現代的な意義まで含めて論じています。本書を、多くの人に勧めたいです。

 

 

■筋金入りのリバタリアンですね!

 

Tomohide Yasuda, “Food Safty Regulation in the United States,” The Independent Review Vol.15, Number 2, Fall, 2010, ほか

 

安田智英様、ご高論二篇をご恵存賜りありがとうございました。

 

・これはまさしくリバタリアンの主張ですね。食品の安全管理のためのコストは、自由な市場経済の原理を殺いでしまうという。もともと安田様は国連開発計画のお役人をされていた、ということですが、こういう観点から論文を書くというのは、まったく役人的ではないような。しかし逆に言えば、お役所的な仕事の無駄な部分を目の当たりにされたのでしょう。

 

・人間は、もしドーキンスの言う「利己的な遺伝子」をもっているとすれば、自分の個人的な効用を最大化するように行動するのではなく、むしろその遺伝子を次の世代に継承してもらえるように行動するでしょう。しかしリバタリアンは、そのような「利己的な遺伝子」に抗して、各人は自分の利己的な利益を最大限に考えるべきであり、そのように考えるならリバタリアンのシステムを採用するはずだ、と考えるわけですね。リバタリアンにとって、国家に使える人々の利己的遺伝子は、最大の敵となる。これは面白いですが、ではリバタリアンは、どうやってドーキンスを批判すればよいのでしょう。進化論のレレヴァンスを疑うための哲学が必要になるのでしょうね。

 

・いつかお会いできることを楽しみにしております。

 

 

■グラスゴーに滞在されていたのですね

 

一ノ瀬佳也「商業の発達と道徳の役割」『創文』2010.11.

 

・一ノ瀬佳也様、ご高論をご恵存賜りありがとうございました。

 

・ヒュームによれば、所有権とは暴力と簒奪によって始まった制度であるという。にもかかわらず、人類は次第に、交換経済を発達させて、互いに他人のものには手を出さないという「さまざまなマナー」を発達させていった。そして実は、所有権システムがうまく機能する理由は、人々が自生的な伝統・慣習のなかで、マナーを共有するようになったからであり、マナーこそが、所有権の法的な根拠にもなっている。これがヒュームの洞察。

 

・そのような発想をうまく法的に確立するためには、マナーとはいったいどんなものかについて、一つ一つ明確にしていかなければならない。それでハチソンは、家族制度が大切であると考えたわけです。しかしマナーは、そのすべてが明確にされているわけではないのです。しかもマナーは、少しずつ変化していく。結局、マナーを維持するための統治術は、既存の道徳や慣習をできるかぎり維持する、という保守的な態度になるでしょう。これに対して、マナーを維持しなくてもいい領域は、海外との開かれた関係のなかで模索されることになる。ヒューム的に発想すれば、これが最適な統治方法になるかもしれないですね。どうかな。